第1章:マンガ研究会の部室と、謎の分厚い印刷物
放課後の大学棟の一室。夕日が差し込む漫画研究会の部室では、積まれた同人誌とスナック菓子の袋の隙間で、二人の部員が机を挟んで向き合っていた。
彼方:「おいおい彩香、なんだこれ。俺の席の机の上に、いきなりこんな重々しい学術論文が置いてあったんだけど……『女性勤労者の女性役割ストレッサーの検討』? ここはマンガ研究会だぞ。いつから総合学術誌の閲覧室になったんだよ」
彩香:「ちょっと彼方、声が大きいわよ! それはね、今度うちのサークルで出す予定の、社会風刺系オムニバス漫画のネタ探しのために私が大学の図書館から引っ張ってきた秘蔵の資料よ。ありがたく思いなさい!」
彼方:「ありがたく……と言われてもなぁ。柴田恵子って人の論文だろこれ。完全にガチの心理学論文じゃねえか。パラパラめくってみたけど、『職場での女性役割』とか『日常的な女性役割』とか『家庭での女性役割』とか、なんかこう……ものすごく生々しい文字が並んでて、読む前から頭が痛くなってきたぞ」
彩香:「そこがポイントなのよ! 最近の読者はさ、ただのファンタジーとかラブコメだけじゃなくて、ちょっとリアルな社会風刺とか、キャラクターが抱えるリアルな葛藤が入ってる作品にグッとくるわけ。私たちが描こうとしてる社会人パロディものにも、こういう『無意識のプレッシャー』みたいなテーマを取り入れたら、絶対に深みが出ると思わない?」
彼方:ふう、と彼は深々とため息をつき、手元のペンをくるくると回した。
「まあ、確かに最近のネームを描くにあたって、キャラクターの行動原理にリアリティが欲しいっていうのはあるけどさ……。にしても、この論文、データの塊じゃないか。Web調査で数百人から回答集めて、因子分析やらなんやらって、完全に文系と理系のハイブリッドみたいなことやってるぞ」
彩香:「そうよ! この論文によればね、女性勤労者が職場で『女性だから』とか『女性なのに』って無意識に期待されるプレッシャー――つまり『女性役割ストレッサー』が、精神的健康にめちゃくちゃ大きな影響を与えてるって分析されてるの。しかもこれ、調査1から調査4までやって、さらに研究2で就業形態とか職位による違いまでガッツリ調べてるのよ」
彼方:「論文の構成まで把握してやがるな……。お前、いつの間にそんなに読み込んでんだよ」
彩香:「昨日、徹夜で読んだわよ! そしたらさ、めちゃくちゃ共感できる部分と、『えっ、今の時代でもそうなの?』って驚く部分があって、すごく面白かったんだから。ねえ彼方、せっかく二人で当番なんだし、この論文の内容を分かりやすく噛み砕きながら、次のネームの構成にどう活かせるか作戦会議しようよ!」
彼方:「仕方ねえなぁ……。でも、こういう小難しい心理学の概念をマンガに落とし込むのは、一歩間違えると説教臭くなるから気をつけないとだぞ。ほら、まずはこの論文が一体何を目的として作られたのか、基本のところから整理してみようぜ」
彩香:「よし、任せなさい! この柴田恵子先生の論文の核心を、私たちの手で完全解剖して見せるわ!」
第2章:3つの因子と、日常に潜む「こうあるべき」の呪縛
夕暮れの光がさらに赤みを帯び、部室の窓ガラスを染めていく。彼方はノートを開き、論文の要点をシャーペンで箇条書きにし始めた。
彼方:「ええと、まず目的のところを整理すると……未婚女性の継続就業の意識は高まっていて、育児休業法とかの支援策も増えてるけど、女性勤労者が長期間働き続けるためには『精神的健康への支援』が不可欠、と。で、これまでの職場ストレス研究って男性中心だったから、女性特有のストレッサーをちゃんと測るためにこの『女性役割ストレッサー尺度』を作った、って流れだな」
彩香:「そう! そこがすごく大事なところよ。男性向けのストレス研究をそのまま当てはめるんじゃなくて、女性特有のジェンダーロールに基づくネガティブな出来事をストレッサーとして捉えているの。で、最終的に抽出されたのが12項目・3つの因子よ。彼方、その3つって何だか言える?」
彼方:「おう、ちゃんと読んであるって。『職場での女性役割』、『日常的な女性役割』、『家庭での女性役割』の3つだろ。……で、それぞれの項目を見ていくと、これがまたなかなか鋭いんだよなぁ」
彩香:「そうなの! 例えば『職場での女性役割』の因子だと、『女性は仕事などで意見をはっきり言うものではない』とか、『男性と同じ職務でも女性には100%仕事を任せられない』、『男性よりも経済力のある女性は生意気である』、『女性は仕事の責任を回避しがちである』っていう項目が入ってるでしょ。これ、今の時代でも職場で無意識に感じること多くない?」
彼方:「確かに。『女性は意見をはっきり言うな』とか『責任を回避しがち』なんて偏見、令和のこの時代でもサラッと言っちゃうおじさん社員とかいそうだよな。マンガのキャラでこういうセリフを嫌味っぽく吐く上司を出したら、一発で読者のヘイトを集められそうだわ」
彩香:「でしょ? しかも面白いのはね、昔はこういう『意見を言うな』とか『経済力がある女性が生意気』っていうのは、日常生活とか家庭の場面として測定されてたらしいのよ。それが、女性の社会進出が進んで男性と同様の職務につくようになった結果、いまや『職場での女性役割』としてのストレッサーに変化してるんだって。これってすごく示唆に富んでない?」
彼方:「なるほどなぁ……。女性の社会進出が進んだからこそ、昔の古い価値観がそのまま職場のプレッシャーとしてスライドしてきたってわけか。じゃあ、2つ目の『日常的な女性役割』はどうなんだ?」
彩香:「そっちはね、『女性は男性よりも礼儀作法を身につけることが必要である』とか、『女性はしとやかに振る舞うものである』、『女性は家事が上手にできて当たり前である』、『手伝いは女性がするものである』っていう、日常生活での行動様式に関する項目よ。これも根強いわよね〜」
彼方:「うわ、なんか息が詰まりそうなラインナップだな……。『家事ができて当たり前』とか、サークルの買い出しとかでも無意識に女子に負担が偏ってたりしないか、ちょっと反省しちゃうぜ」
彩香:「前にバイト先でね、重たい荷物を運ぼうとしたら、店長に『そういうのは男の子がやるからいいよ』って言われたことがあったの。悪気がないのは分かってるんだけど、『女性だから』って決めつけられたような気がして、なんだかモヤモヤしたのよね」
彼方:「あー、それまさにこの論文の内容じゃね? 本人は親切のつもりでも、受け取る側は『女性だからこうあるべき』って期待されてるように感じる。それが積み重なると、ストレッサーになるってことなんだろ」
彩香:「そうなの。たった一言でも、それが何度も続くと『私って女性だからこう振る舞わなきゃいけないのかな』って無意識に考え始めちゃう。それが、この論文でいう『女性役割ストレッサー』なのよ。それに気づけただけでも今日の部活の価値があったわね! 」
彼方:「そうかもしれないな!」
彩香:「そして最後の3つ目が『家庭での女性役割』よ。『女性は結婚すると仕事よりも家庭の方を優先するのが当たり前である』、『家庭は女性が守るものである』、『女性が家事をやるのは当たり前である』、『家庭において妻は夫をたてるべきである』……これよ、これ! これこそワーク・ファミリー・コンフリクトにつながる典型的な要因よ!」
彼方:「家庭内でのジェンダーロールの押し付けか。内閣府の調査でも、家庭生活での男女の地位が『平等』だと思う割合って、男性は増えてるのに女性とのギャップが逆に広がってるって論文に書いてあったな。家庭と仕事の両立に悩むキャラクターを描くなら、この第3因子は絶対に外せないプロットの軸になるな」
第3章:正規と非正規、一般職と管理職のリアルな格差
ノートのページをめくりながら、二人は研究2のデータ分析結果へと議論を進めていく。部室の空気はすっかり真剣なものに変わっていた。
彼方:「ふむふむ……研究1で尺度の信頼性と妥当性がバッチリ確認されたあと、研究2では実際に『属性によってストレッサーの感じ方にどんな違いがあるか』を調べてるわけだな。ここが一番マンガのキャラ設定に使えそうだぞ」
彩香:「そうよ! まず就業形態による違いね。正規職員と非正規職員(派遣・契約・パートなど)で比べたら、『職場での女性役割』と『日常的な女性役割』のストレッサーは、なんと正規職員のほうが高かったんだって!」
彼方:「おっ、それは意外だな。非正規のほうが立場が不安定だからストレス高そうに思えるけど、論文の解説によると、正規職員は職務内容や責任、労働時間が全然違うからだってさ。特に平均労働時間が長いことで、日常生活が圧迫されて『日常的な女性役割』のストレッサーも強くなるって推測されてる」
彩香:「そうそう。バリバリ働く正規雇用の女性ほど、責任の重さと長い労働時間のせいで、余計に『女性らしくあれ』みたいなプレッシャーを跳ね返す余裕がなくなっちゃうのかもしれないわね。うちの漫画に出てくるキャリアウーマン系の先輩キャラ、まさにこのタイプでいこうかしら」
彼方:「それいいじゃん! で、さらに面白いのが職位別の違いだよな。一般職と管理職(係長・課長・部長)で比べたら、今度は『職場での女性役割』と『家庭での女性役割』のストレッサーが、管理職のほうが高かったってデータが出てる」
彩香:「管理職になると、責任や裁量権が増える分だけ、周囲からの性役割期待とか、処遇上のギャップに直面する機会が跳ね上がるってことよね。佐藤・久米の研究とかも引用されてて、管理職の女性は周りからのプレッシャーがハンパないって指摘されてるわ」
彼方:「立場が上がれば上がるほど、社内での『女性管理職としての振る舞い』を求められたり、家庭との両立で板挟みになったりするわけだ。うーん、中間管理職の苦悩って男も女も変わらないんだなぁ……いや、むしろ女性の場合はジェンダーロールの縛りがプラスされるからもっと複雑なのか」
彩香:「そうよ! さらに細かいのが、職位別の『婚姻状況』による違いよ。一般職だと、既婚・子どもなしより『独身』のほうが、職場と家庭の女性役割ストレッサーが高かったの。配偶者の有無が影響してるみたいなんだけど……独身だからこそ周囲から余計な詮索をされたりするのかしら?」
彼方:「逆に管理職の方では、既婚・子どもなしよりも『シングルマザー』のほうが、職場と家庭の女性役割ストレッサーが有意に高かったって書いてあるぞ。これはもう完全に、育児役割と仕事の圧倒的な負担の差だな……」
彩香:「子育てしながら管理職やってるシングルマザーの先輩キャラなんて、ドラマチックすぎて最高にエモいストーリーが作れそうじゃない! ねえ彼方、このデータをベースに、次のオムニバスのプロット一気に固めようよ!」
第4章:マンガ研究会の新しい野望と、私たちのウェルビーイング
窓の外ですっかり日が暮れ、部室の蛍光灯がカチッと音を立てて点灯した。ノートいっぱいに書き込まれたキャラクター設定とプロット案を見つめながら、二人は充実した笑みを浮かべていた。
彼方:「いやはや、最初はただの分厚いお堅い論文だと思ったけど、こうやって紐解いていくと、めちゃくちゃリアルな人間のドラマが隠されてるんだな。柴田先生の考察の締めくくりも、かなりグッとくること書いてあったぞ」
彩香:「そうそう! ただ単に『メンタルヘルス不調を防ごう』っていうだけじゃなくて、身体的・社会的な健康、そして『自己実現』も含めたトータルでの『ウェルビーイング』の視点から女性の就労を支えていく必要がある、って結ばれてるのよ」
彼方:「企業側が働く女性に対する理解を深めるのはもちろんだけど、俺たちが描くマンガの中でも、こういうステレオタイプな性役割の呪縛に囚われながらも、それを自分の意志で乗り越えていこうとするキャラクターたちの姿を描けたら、すごく意味のある作品になるよな」
彩香:「うん! ただ愚痴を言うだけのマンガじゃなくて、データに裏打ちされたリアルな葛藤と、そこから一歩踏み出す人間ドラマを描くの。今回のオムニバス、タイトルは『ジェンダー・ロールの向こう側』で決まりね!」
彼方:「おいおい、勝手にタイトル決めるなよ。でも……まあ、悪くねえな。よし、じゃあ今日のミーティングはここまで! 腹減ったし、大学の近くのラーメン屋でも行ってネームの続きを詰めるか」
彩香:「やった! 奢りなら喜んで付き合うわよ、彼方プロデューサー! さあ、部室の鍵を閉めて出発よ!」
こうして、大学の漫画研究会の片隅で生まれた小さな論文研究会は、彼方と彩香の新しい創作のエネルギーへと変わり、静まり返った部室には二人の足音が軽やかに響いていったのだった。
あとがき
彩香:「ねえ彼方。もし自分でも気づかないうちに、誰かへ『こうあるべき』を押し付けていたら、どうする?」
彼方:「……まずは気づくところからじゃねえかな。人って、自分の当たり前ほど疑わないからさ」
彩香:「うん。その『当たり前』を一度立ち止まって見直すことができたら、誰かを少しだけ生きやすくできるのかもしれないね」
彼方:「案外、それってマンガやラノベも同じかもな。読んだ人が、自分の『当たり前』を少しだけ見つめ直せる作品。それが描けたら、今回の論文を読んだ意味があったってことだな」


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